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徒然音楽日記(新) Saxophone - Yuki Yoshio

日々の活動の記録

不特定多数が人を救う時も、多分あると思うんです

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沈みかけの太陽と、山と桜。
別れを惜しむような日の沈みと、新たな出会いを歓迎するような桜の開花。

個人的な話になるが、とても身近な人とこれから会う機会がグンと減ってしまう。
卒業式等の別れでは、正直それほど惜しさというものを感じた事は無かった、しかし今回は違った。
この感覚は忘れてはならないように思う。この気持ちがあるからこそ、努力しようと思えるのかもしれない。

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最近、ブログは書いたり書かなかったりしていて、とても日課とは言えるようなものではないが、やはりなるべく続けたいと思う。
というのも、精神的な環境がこれから大きく変わる今からだからこそ、ブログという媒体は人に気持ちを伝える大切な手段となりうる気がするのだ。
不特定多数を相手に出来るという事は、誰かにメッセージを送っているという事でもあり、誰にもメッセージを送っていないと言い換える事も出来ると思う。
読む事も、反応する事も、受け手は自由なのだ。
気楽に楽しく(面白い言葉は並べられないけれども)読んでもらえるブログというものをこれから書いていけたらと思う。

ロマン派の時代に思う

ある19世紀の曲をサクソフォン四重奏用に編曲している。

まだサクソフォンが生まれるよりも前の作品だ。
正確に言えばサクソフォンが特許を取得する数年前に出版された作品。

編曲する際に、アーティキュレーションの指示が気になり、かなり正確にサクソフォンの譜面に打ち込んでみたら、想像を絶するほどの細かさになってしまった。
曲想にそぐわぬ入り乱れるフォルテとピアノの連続。不自然に見えてくるようなスフォルザンド等・・・
実際に楽譜を再現しようとしたら、聴いていて気持ち悪くなってしまいそうなほどだった。

そこで違和感を覚えたのだ。
楽譜に書いてあるアーティキュレーションに、ではない。
自分の音楽的な表現に対する感覚に違和感を感じた。
逆に考えれば、短い時間の間にとにかくたくさんの変化があったとしても、自然に聴こえるような表現があの時代にはあったのではないだろうか?
いつだか、どこだったか、なんだったか、最近の演奏はコントラストの強さで表現する演奏が多い、というような文章を見かけた記憶がある。
明暗、強弱の差、…2極化された様々な要素を大きく隔たらせる事によって、曲に大きく変化をつけていく…というか。
実際、自分の好みとして大胆な変化というものはかなり魅力的に映えている。
しかし、もしかしたら本当の趣味の良い演奏というのは、繊細な変化の中に表れる内面の大きな変化なのかもしれない。
今の自分には分かっていない表現の世界がある事を、この編曲を通して知る事が出来た。
この編曲は来月披露の機会がある。このブログを見ている人が多いとは思わないが、知られているとちょっと楽しみが減ってしまう懸念もあるので、曲名はまた本番が終わったら挙げて、また記事にしたいと思う。

新人演奏会でした

東京国際芸術協会主催の、新人演奏会に出演した。

ラーションの協奏曲を演奏した。
思えば、協奏曲を全楽章ノーカットで演奏したのは初めての経験だった。
そもそも、自分はあまり協奏曲は数をこなしていないかもしれない。かなり不思議な選曲だったかもしれない。
20分、全く集中力を切らさず1曲を演奏し続けるのはかなり大変だった。
暗譜が飛ばなかったのは奇跡的だったと思う。かなり冷静に音楽に入り込めたと思う。
ただ、やはり課題点は多かった。難曲故、割り切って思い切る演奏をしなければならない場所も少なからずあって、自分の技術や基礎力の不安定さも感じた演奏ではあった。
それでも、自分の大好きな曲を長い期間をかけて準備して、それを演奏出来た喜びは大きいし、達成感もある。
この曲にチャレンジ出来て本当に良かった。
これからも、自分の大切なレパートリーとして、大事にしていきたい。

伴奏してくれた乗田晏妙さん譜めくりしてくれた みかこけしちゃんありがとう。
ご来場くださったお客様、ありがとうございました。
TIAAのスタッフの皆様にも感謝申し上げます。

学外定期演奏会でした

正直今日の演奏会に満足したポイントは何も無いが、今日大量に残った課題は次に繋げられると希望視している。
一緒に働いてくれた1年生の皆、ありがとう。
スタッフお手伝いしてくださった2年生の先輩方ありがとうございました。

さて次は自分の本番。
ラーション。。がんばろう、

実技試験の講評

高校時代には、試験後に試験官の先生方の講評用紙を担任の先生がまとめて下さったものを受け取っていた。
もちろん今も大切に取っておいてあるが、今日久々に読んでみたら、当時抱いていた自分自身の演奏の感想と、大きくギャップがあることに気がついた。
自分自身の目指す音楽が変わってきているのかなとも思う。
目指すものが変われば、見えてくるものも変わってくる。
自分は少しずつでも、前に進めているのだろうか。

今年度さらった曲思い出し文章その1

学校に入ってまず練習していたのはマシスの奇想的練習曲。
6つの規模の大きめのエチュードからなる練習曲集であるが、難しかった…。
いつか人前で演奏してみたい。
個人的に無伴奏ものというものはハイリスクだという思い込みが強いので、基本的には逃避してしまうのだが…
この曲はやってみたい。
特に2番目のスケルツォは好きだ。

林檎の木

明日世界が終わるとしても、今日僕は林檎の木を植える。

少し元の形と違うかもしれない。
宗教改革者であるルターの言葉であるが、近年は吹奏楽コンクールの課題曲の題名として使われたりと、有名な言葉かもしれない。

自分にとっての林檎の木とは何だろうか。
大したものは無いとは思う。自分の習慣だったり、原則だったり、当たり前のことだったり。
自分の習慣というのは楽器の練習、食事、あいさつなど日常的に行う事としよう。
原則とは、自分の考え方や道徳、自分の中の正義と考える。
それらを引っ括めて当たり前のこと、としよう。

自分にとっての世界とはなんだろうか。
自分に見えている世界は、どんな形をしているだろうか?
いろんな人やいろんな立場、自分の頭の中の音楽…様々なものがあって自分の世界は成り立っている。
それが終わるとする。
なかなかショッキングかもしれないが、日常というものはいつも脆く儚いものだとも思う。
慣れに流される日常の中に訪れる変化など、表面に出なければ絶対に見えない。

それでも、僕は林檎の木を植え続けるしかないのだ。
自分を助ける方法は、どんな世界が終わっても、自分にとっての林檎の木を植え続けることだけなのだと思う。
ただ、ひたむきに、無言で。

なんだかエモーショナルな記事になってしまった感がすごい。が、別に何かあったわけではない。
いい言葉だと思う。外圧に絶対に流されないような意思の強さを感じる言葉だ。

ラーションの本番まで10日を切った。
大好きな曲を全楽章カットなしで演奏できる貴重な機会だ。
全力で挑んで全力で楽しみたい。

3月の雑感

早く寝たいのでさらっと書いて終わろうと思う。

自分自身、音楽を学びたくて音楽大学に入った訳であるが、自分を1番のばせるものは何かというのを考えた。
平べったく言ってしまえば、自分に、どのような成長の余地があるのか。
どの切り口から努力する事が、自分自身を効率的に成長させられるか。
作業みたいな言葉になってしまうが、そんな事を今日はぼんやりと考えていた。

そうして、1つ思いついた事がある。
自分自身の良い部分、そして同時に失われるものがあるリスクの高い方法だが、しばらく続けてみたい。
そうしてそれは、下手をすれば練習をしなくても上達する方法なのかもしれない。

そして、現実を見なければならない事として、もしかしたら自分の性格は音楽には向いていないのかもしれない。
どうにか変える事は出来ないだろうか。
もっと自由の利く世界が、自分の生きやすい環境なのかもしれない。
…ああそうか、自分でもっと自由を利かせられる環境を作っていけばいいのか…。