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徒然音楽日記(新) Saxophone - Yuki Yoshio

日々の活動の記録

大阪に演奏しに行ってきました



10月13日(金)。10:45くらい。羽田空港。
飛行機出発20分前。出発ロビーの風景。



神戸空港に降り立って乗った、ポートライナーの中から撮った写真。超いい天気。



チェーン店だったが超美味しかったお好み焼き(神戸)



神戸の夜景。生きててよかった…と思った。割と本気で。


10月15日。本番の日。会場にて。



そういや神戸牛食べてない!食べなきゃ!
といって空港で頂いたローストビーフ丼(神戸牛かどうかは分からないため、思い込んで食べた。美味しかった。とても。)。

サックスカルテットでの演奏だった。

ジャズの本番でしかも初テナーで、分からぬことも多くあり苦労したが、メンバーの皆さんの暖かいサポートと、現地では本当に暖かい待遇をして下さり、頭の上がらぬ思いの中、どうにか演奏を終えた。
また、その次の日には別の本番も控えており、わざわざ練習の時間を確保させて下さったりと、メンバーのかたもたくさん協力してくださり、本当にありがたかった。

同じ自分の演奏でも実際に演奏しながら聴く音と、演奏せず録音などで聴いている音はやはり全然違う。
今回はとくにそのギャップをテナーで知ることになり、そして、テナーの自分自身の音から、自分の根本的な音楽のクセを思い出したりもしたり、学びの多い本番だった。

少し記事が簡単になってしまったが、この大阪のこともまた詳しく書きたいと思う。

加藤昌則氏のオリエンタル(学祭2日目、12:00頃、10-101)

サクソフォン作品として、久々にかなり華やかな曲を取り上げる。
ソプラノサックスとアルトサックス、そしてピアノのための「オリエンタル」だ。

それほど発表されてから時間の経っていない曲ではあるが、サクソフォンデュオの現代作品としては長生淳氏のパガニーニ・ロストに並ぶ素晴らしい曲といえよう。
楽器編成と、録音の数の事情、そしておそらく曲の理解という意味での難易度で、パガニーニ・ロストの方が知名度は高いが、オリエンタルこそもっと広く知られる余地があるように思う(何様であろうか)。

この曲をジャンル分けするのは難しい。
ミニマルミュージックと言える部分もあるかもしれない。民族音楽とも言えるかもしれない。
しかし、作曲者はこの曲について「バリズムの拡張」という言葉を用いている。
バリズムというのは、漢字で書くと難しくて読めないし書けない(からコピペもしない)のだが、とりあえず医学用語で、自らの意思に反して肢体が動くという症状のことらしく、これを不確定的で、かなり反射的とも言える、厳しいリズムで表現している。
テンポは全体的に遅く指定されているが、スピード感は思っている以上に速い。

拡張的な奏法も効果的に配置されており、サクソフォンの様々な響きを楽しめる良作だと思う。

この記事を書きながら、新しい「いわゆる現代音楽」の可能性の広さというものを改めて実感している。
もっと素晴らしい音楽が生まれる余地はまだまだたくさん残されているし、学生という身分ではあるが演奏者として、素晴らしいと自分が思った曲はどんどん発信していきたいと思った。

この曲も学祭で演奏するが、アルトで参加する。

バッハのシャコンヌ(学祭1日目、10-101,14:15頃)

J.S.バッハの、無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番 BWV1004は、西洋音楽史上における最高傑作として名高いヴァイオリンソロのための音楽である。
特にその中でも、第5曲目にあたる「シャコンヌ」は他に類を見ない超一級品の極上の音楽と言えるものであり、ヴァイオリニストのみに飽き足らず多くの人々を虜にした音楽といえよう。
この音楽を、日本を代表する作曲家である伊藤康英氏がサクソフォン四重奏の形態に編曲をした。

自分なりにであるが、この曲に対する印象を踏まえながら曲目の解説をしたい。
いつも通り、内容に責任は負えない。
一応、勉強している身であるし、自分の推測で書いている部分も少なくない。
あくまで一つの読み物として楽しんでほしい。



バッハはご存知の方も多いかと思うが、1685年に生まれ1750年に没した、ドイツの作曲家。
それまでの西洋音楽史上での音楽語法を集大成した存在(Wikipediaの文なんですけど、すごい良い表現ですよね)といえる作曲家であり、このバッハの生きた時代をいわゆるクラシック音楽の世界では「バロック時代」と呼ばれる。
バロックという言葉には「歪んだ真珠」という意味付けがなされており、これは西洋美術の様式との関連から主張される。この詳しい話はまた別の記事に書きたいと思う。
バッハに話を戻し、自分の印象を付け足すのなら、それまでの音楽語法を集大成することに飽き足らず、かなり意欲的で前衛的な書法も試みていた作曲家だと思う。

この曲の作曲時期は、バッハにとって俗にケーテン時代と呼ばれる時期に書かれた曲であり、原題は「無伴奏ヴァイオリンのための独創曲 第1巻」である。
その楽譜の表紙には「ヨハン・セバスチャン・バッハ 1720年」と続く。この頃にバッハは、アンハルト=ケーテンの宮廷楽長に就任していた。
勉強不足でお恥ずかしいのだが(誰か詳しい方教えてください)、この頃、バッハには宗教曲を書く義務が全く(?)与えられず、バッハの重要な器楽作品の大半はこの時代に書かれている。

バッハという作曲家は、無意味な題名をつけないと言われる。
というのも、例えばこの「無伴奏ヴァイオリンのための独創曲」に関しても、既存の形式枠に収める事を尊んだ作品であるソナタは厳格な協会ソナタ形式を持っているし、新たな形式に対する興味を作品に示したパルティータは、比較的当時から自由な形式を持っていた。

さて、シャコンヌの話に戻そう。
実は、正式なバッハのシャコンヌ作品というのは、この作品しか存在しない。
ほかにも作品があるという説があるが、いずれも贋作作品であるとか、紛失されてしまったといういわく付きのものであるため、純粋なシャコンヌは1004番の5曲目のみと言える。

シャコンヌという楽曲形式は、低音部の同型反復(オスティナートという)をテーマとした、変奏曲であり、もともとの起源はスペイン、時は16世紀というふうに言われている。

シャコンヌはテーマから変奏までが絶え間なく続くものが基本とされているがバッハのそれは、音楽的な枠を大きく捉えると転調を根拠にする三部形式ととることもでき、ただ既存の額縁に芸術という絵を収めることに満足しない、バッハらしい意欲を感じることが出来る。
しかし、バッハが2重の作品様式を持たせた音楽というのは、他にはあまり無い印象を受ける(あったら教えてください)。
つまり、バッハはこのシャコンヌに対してのなんらかのこだわりを持っていたのではないかと個人的に推測する。
そもそも、何故この無伴奏ヴァイオリンのパルティータにシャコンヌを加えたのか?他の楽器では駄目だったのか?

その答えはバッハの一人目の妻であるマリア・バルバラの死であると推測される。
この論はそれほど目新しい意見ではないから、別に分かりきっていることを書くことに意味など無いのかもしれない。しかし、自分にとって、それこそ言葉に出来ないような感傷に浸ってしまう部分があり、だからこそこのように作品の解説という名目で長長と文章を書いてしまうのだ。

このシャコンヌには死という重いテーマを切り離して論じることは出来ない。
無伴奏という作品形態は孤独そのもの(取り残されたバッハ)を我々に感じさせるし、シャコンヌの反復は、表面に見えるものがどのようになっても、本質は変わらないーマリアへの愛は変わらないーというメッセージのように思えてならない。
さらに言えば三部形式と、最後のd-moll。
d-mollという調性はバロック時代の作曲家、マッテゾンによれば「信仰深い」と表現する折があり、神であるとか、運命だとか、そのような人には及ぶことの出来ない境遇の表現に適しているとも言える(が、この意見は若干厳しい。実際はd-mollの方がヴァイオリンの演奏に適しているというような事情も感じる)。
そして、最後の最後まで全く救われない、重く、重厚で、絶望的な音楽でありながらも、その音楽はどこまでも真摯で、最高の手向けとも言えるものであるのだ。


実際のサクソフォン四重奏編曲版は、ヴァイオリンの原譜に忠実というわけではなく、サクソフォンの華やかな部分を効果的に聴かせられるように書かれている。
演奏のコンセプトも、普段のサックスのイメージとは少し違うものを目指してみた。
明後日、学園祭の中で演奏する。

10月雑感

更新できなかった分を、今日まとめていくつか記事に出来たらと思う。それくらい書きたいことが溜まっている。

室内楽でプーランクのトリオをさらうことになった(他にもさらう曲はあるが後日記事にしたい)。
学科の中での室内楽の授業なので、前期からであるがメンバーが本当に素晴らしい方ばかりで、とても刺激も受けるし勉強にもなる(そしてサックスという楽器が持つべき方向性というものをいつも考えさせられる)。
その中で少し思ったことなのだが、サックスという楽器がほかのクラシック音楽を奏でる楽器に比べて「これだからサックスは…」のように思われる原因というものを勘違いしているのではないかと思うようになった。
(この記事を書く度に強く言っておきたいが、サクソフォン奏者を非難したいのではない。実際一生懸命なのだ、こっちはこっちで。)
どれが正解なのかは分からないが、研究してみたい。

正解という言葉は往々として、自分の課題を遠まわしに言い換えているもののようにも感じる。

明日から学祭期間である。おっそろしい音楽を3曲演奏させていただく(別に記事にすると思う)。

あと少しだけ大股で、あと少しだけゆっくりと歩みを進められたらこうはならないんですよ

その人の行動はその人の心を表す。
題名にもなっている歩き方だが、かなりこれはその人の性格を表している気がする。

変えたいのだ。どうにか。
こういう時でも、常に、成功に対して貪欲であり続けたいのだ。



今日のコーヒー。苦味が美味しい感じだった。
ただ、この類のコーヒーは開ける時気をつけないと噴き出すのが恐ろしい。密閉して酸化?防いでるのかも分かんないけど、こだわり方すごいよなあ…。

明日も頑張ろう。

一昨日飲んだコーヒー



の、ことは全く文章にしない。
ただ、写真があったほうが面白いかなという安易な考えで、とりあえず乗っけておいた。
カフェイン1.2倍ということなので、単純に単純に考えて集中力も1.2倍になるのだろうか。
集中力は数値化できないものであるから、ナンセンスな疑問ではある。
が、いつもより少し集中して練習ができた、という言葉の響きは好きだと思う。

昨日の記事のネガティブと繋がるが、「出来ない」という状況は時に大きなストレスになることがある。
ましてや、失敗の類の「出来ない」であれば、まだ仕方ないところがあるが、そもそも挑戦も「出来ない」とか、行動に「出来ない」が起因する「出来ない」はかなりのストレスだと思う。

ここからは自分の話。
ここ数日の自分の言動や行動を振り返ってみて、ストレスが強くかかっている事に気付き、生活リズムを努力して改善するように行動を始めた。今月入ってから。
睡眠時間を6時間作り、生活リズムを記録し、あとは食事だけどうにかなれば完璧なのだが、この偏食はどうにも治らず。、

ストレスの原因は何であろうか。
これは結構単純な答えなのだが、しかし自分ではなかなか受け入れたくない時もあるのだが、結局は、自分が至っていないことを受け入れられないだけなのだと思う。
それを正当化したかったりするために、外的要因に正当化の理由を見つけ、あたかも自分は自分のできるすべてのことをしている、と自分を大事にしない言葉を自分に浴びせ、表面を取り繕うのだと思う。

というのと、やはりこちらも単純なのだが、コンディションの問題。
睡眠時間を取らないのは、自分の場合、集中力も落ちるし、自分で自覚できるレベルで反社会的な(笑)発言が増えたりする。
後は、日々のルーティンワークをこなさない、ということも、後あと自分のことを振り返る時に、自分を自分で支えられるような何かが無いというのはとても辛いことだと思う。
このブログも、日課までは行かないが、自分の気持ちを整理するツールでもあり、自分の好きなことでもあるように思う。
サックス歴と、ブログ歴は同じくらいじゃないだろうか笑
少なからず、このブログで文章を書き続けたことによってついてしまった文章力は、自分がプログラムノートを書く時の大きな手助けになったし、少なからず音楽作りという所でも、文章の構築なんかも影響しているような気はしている。

話は逸れたが、とりあえず、ストレス溜まるようなことはしないようにしようって話である。

いや、普通にもっと他に書きたいことがあるのだが、とりあえず、これくらいで。

あと、さっき電車降りて階段登ってたら、生のうどんが手すりに引っかかってて、ポルナレフ状態になりました。
以上、今日の報告でした。

自分で自分の可能性つぶすような事言っちゃいけませんよね

その、最近気をつけなきゃなとずっと思っているのが、謙遜とネガティブをはき違える事。
もちろん、自分は足りていない所だらけだと思うけれども、それでも自分が足りていないなりにも持っているものを自分で大切にしないといけないなと思うし、それが出来ないと自分に自分で納得出来ないと思うし、人にも納得してもらえないように思う。

そう、今は出来なくたって、いつか出来るようになるかもしれないことだってあるかもしれないのだ。
〜かも、〜かも、ばかりだが、そんなもんだし、それを信じられるから頑張れるとも思う。

いつか、ベートーヴェンやモーツアルト、ショパンだって、説得力を持ってサックスでも演奏してみたいものだ。
尊敬と、挑戦の意を持って。

書きたい事が本当に今たくさんあるのだが、どの時間もつぶせないので、今日はこれくらいに。

S15内径

Vandorenマウスピースは内径が太い印象がある。
そのため、古いネックコルクだったり、セルマーのマウスピースをずっと付けていたネックコルクだったりすると、コルクの太さが足りず、チューニングすらままならないというようなことが起こりうる。
コルクを変えればいいだけの話なのだが、簡単な応急処置でどうにかなる所でもあるので、今日はそれを簡単に紹介したい。
紹介すると言っても、ただ写真をポンと貼り付けて終わりだが。



こうして…



こうじゃ。

貼りやすくはがしやすい製本テープをひとまきした。
これだけでマウスピースも固定されるし、何より楽器の鳴りが全く変わる。面白いものである。

かといって、Vandoren独得のノイズが消えるかというとそういう訳でもなくて、そこはやはり奏法で鍛えていくしか無いところだろう。

明日は時間があれば楽譜のエディション問題について触れたい。

ソプラノマウスピース雑感



先日、ソプラノのマウスピースを買った。
半年前にSelmer S90-180を購入したが、もちろんそれもこれからも使っていくが、どちらかと言うと自分が吹くと室内楽的な響きがしているため、逆に個人のカラーがハッキリ出るようなマウスピースを選んでみたいと思った次第。

今回は、Vandoren Optimumシリーズから、SL3,SLR,SL5、そしてV5シリーズのS15を用意していただいた。
いつものことながら数が多くありがたい。
久々にたくさん選んだのでレポートを書きたい。
このブログに正確な情報を求める方はそれほどいないとは思うが、一応。この記録は、吉尾の主観であるので、この情報の内容は責任を負えない。
オープニングとフェンシングのソースは公式ページ。試奏時のセッティングは、M/Oと、Vandoren Traditionalの4。楽器はSelmer serie2。


Optimum SL3
オープニングは1.14mm,フェンシングはML。
印象はAL3にかなり似ていて、全音域でかなりまろやかな音色。ただ今回必要なマウスピースとはコンセプトが異なったので、あまりたくさんは吹かなかったが、セルマーを元々吹いていた方からはここからが入りやすいと思う。

SL4
オープニングは1.23mm、フェンシングはS。
急にかなり開きが大きくなっただけあり、必要な息量はかなり増す。
フェンシングの短さ故、音こそまろやかではあるが、輪郭がかなりハッキリするのが面白いが、扱いはかなり熟練させる必要があると思う。

SL5
オープニングは1.25mm。フェンシングはS。
結論から言うと、マウスピースはS15を買ったのだが、それの感覚に一番近いものを感じた。
ホームページによればこのマウスピースに相性の良いリードは青箱も3.5までとなっていたが、お構い無しに4で吹いた。が普通に吹けた。
マウスピースのポテンシャルを正しく引き出した、とは言えないが、オプティマムシリーズで選ぶならこれかな、というのが正直な感想。
かなり息量が必要で抵抗もそこそこに強い。
以前、自分はアルトでAL5を使っていたことがあって、これに似た感覚を感じた。デザンクロのような音楽にかなり向いていそうなマウスピースだ。

V5series S15
オープニングは1.23mm、フェンシングはS。
前述したSL4と基本的な情報が一緒であるが、詳細な部分に違いがあるようだ。(今度調べてみます…)
ただ、旧版のVandorenのマウスピースカタログを見ると、SL4はS15をベースに開発したという記述が残っており、それに加えて、「オプティマムのデザイン」という言葉もあった。
今回マウスピースはこのS15にしたわけだが、やはり音色の振り幅の大きさが魅力的であった。雑音との付き合い方などはやはりとても難しそうではあるが、それは奏者の実力と努力に委ねられるものだし、そのへんの腹は括ることにした。
ちなみにSL4よりも抵抗が少なく、比較すると音はこちらの方が少し明るい。
Vandorenマウスピースは扱いも難しいが、1日試奏しただけで決めたものが必ずしもずっと良いものでもない、気がするのが本当に難しいポイントで(かなり繊細なマウスピースたちだと思う)、特に使いこなすまでの期間はつらい部分も多い気がする。

今回は運良く良いマウスピースに出会うことができ、吉尾のメモによると、
全音域にかけて音色が基本的に良く、
抵抗感は他のS15よりも少し軽めで、
低音域は少し乱れるがコントロールの範疇でどうにか出来そうで、
(今のところそれほど使いもしないが)フラジオ音域がかなりコントロールしやすい
マウスピースに出会った。(それを買った)
S15マウスピースは15本くらい吹かせていただいたが、個体差も大きく、その違いが本当に面白くて、2本くらい買って使い分けたいくらいに思ってしまった。笑

やはりマウスピース選びは本当に楽しいし、面白い。
リードなんかはいつも選ばなければならないので死活問題(笑)であるが、マウスピースは確かに個体差やコンディションのこともあるが、そんなに頻繁に変えられないという事情が逆に面白さに深みを増しているような気もした。

さて、自分の好みのセッティングにしたということは自分の至らない部分を外的要因に依せることが出来なくなるわけである。頑張らなければ…!