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徒然音楽日記(新) Saxophone - Yuki Yoshio

日々の活動の記録

かたまり

最近気づいた?というか予想を立てているのが、意外に高校時代に吹いた曲が得意じゃない、という事案。
断じてレッスン云々じゃないことは先に断言しておく。

おそらく。自分の奏法という概念が無い中で執拗な反復練習によって染み付いた癖がものすごい障害になっているのではないかと感じる。

しかし今後そのような曲を演奏することもあるだろう。
そんな時にはどうしたら良いのだろうか。
もうこれは新しい気持ちで勉強し直すしかないのだろうか。
しかし例外もある。たとえばボノーなんかは吹きにくかったがそうでもなくなってきた。しかしグラズノフはずっと吹きにくい。本当に吹きにくい。

最近、楽器の演奏中に特定の条件下で全くコントロールが効かなくなる、という場面によく遭遇するようになり、身体の使い方など基礎的なことから見直している。
どうしてもこのような作業は時間がかかる上に自分の未熟な部分に塩を塗るというかそういうようなことをしなければならないのでなかなかキツイのだが、必要なことだと思って色々考えている。
アレクサンダーテクニーク等の思考プロセスなんかも視野にいれつつ…

いや、けど結局考えすぎると逆にあかん感じになるから考えすぎるのもやめよう。

10月おさらい会

今日は1619にて10月のおさらい会だった。
プログラムは以下の通り。

Brahms : sonate op.120-2 よりI
Rueff : Concert en Quarter
Scriabin : 24 preludes より
Brahms : Sonate op.120-2よりI
koetsier: Brass Quintet op.65よりI,III
George Gershwin: Four Hits for fiveより
Rachmaninov : variations on a theme of Corelli op.42
Beethoven : Sonate op.110(31番)
Bassi : Concert Fantasie on a Verdi's Rigoletto

吉尾はリュエフとバッシを演奏。
リュエフは前からずっと吹きたくて、無理やり1ヶ月もさらわずに詰め込んでかなり粗い演奏になってしまったが、そういう気軽さも大事にしたい(と言って正当化する)。エフのメンバーと学校の1年生に協力してもらった。

リュエフのコンセールは序曲に始まりフーガ、メヌエット、パスピエ、アリア、ロンド形式のフィナーレと、世界中で「様式」として成り立っている音楽を20世紀フランス音楽の語法に昇華させた作品で、サクソフォーン四重奏曲としては最高峰の作品の1つとしてまず間違いないだろう。
それは聴き触りの良さ、かっこよさももちろんであるが、改めてさらってみて分かった事としては、リュエフという作曲家は間違いなく、卓越した理論の下に音楽を展開させているということであった。このリュエフのこの楽曲の完成度の高さは、ほかの作曲家に申し訳ないが本当にずば抜けていると思う。作曲家の理想のようにも感じる。パッと聴いてかっこ良い、卓越した理論性を持っており、なおかつ演奏者も勉強すれば必ず理解できる(基礎的な語法が本当にバランスよく組み合わさっている)点、本当に素晴らしい曲だと感じた。エフで取り上げたいな~。

対してバッジのリゴレットファンタジーは、サックスでなくクラリネットのための名曲。ルイージ・バッシはロマン派の時代に活躍したコンポーザー=クラリネティストで、当時から彼はクラリネットのヴィルトゥオーソであった。当時リストやパガニーニを初めとするヴィルトゥオーソの台頭が目立ったこのロマン中期から後期の時代、輝かしい舞台で存在感を放っていたのは鍵盤楽器や弦楽器だけではないという、管楽器なりのプライドを持って書かれたのではないかと思う。
3つのアリアメロディを利用して書いたこの曲はクラリネットの音域を端から満遍なく使い、するとサックスは当然音域が足りなくなるわけで、特に地獄だなと思ったのは高音サイドキーの酷使。そしてフラジオと高音の素早い行き来…。
もちろん、普段取り扱っている曲に比べたら構造や和音など判断していくことはそれほど難しくない。しかし身体がついていかない。ホントに。ビックリ。しかも練習中出来ることが人前で出来ない、ということをモロに感じた。久しぶりに。ほんとに。
連符を歌うとテンポが崩れる、テンポを保つとただの羅列。
このバランスを(時にフラジオの音色を保ちつつ)取りながら演奏するといつのは並大抵のメンタルやテクニックで出来るものではないと痛感した。

サックスのレパートリーにバッハはいない。

よく言われる話だが、もっと広義のレパートリーとして捉えるべきであろう。
近代、現代の音楽になれば、その音がもう意味を持っているのだから、感覚で演奏しても何ら差し支えない演奏ができる場合が多い。(もちろん知識云々で演奏の質は全く変わるがそれはさておき。作品だけ見ての話)
しかし、(語弊を恐れず言うが)ロマン、古典、バロック、ルネサンス…昔の作品に遡るほど、和声機能や音の進行の自由は妨げられ、その代わりに音そのものに修辞させることで音楽のメッセージとした。
その時代にあった音符のメッセージを受け取り、我々は正し(いと思われる)解釈を、根拠を持って主張し伝えていかなければならない。
そういう意味で、我々のレパートリーに無いのはバッハだけでない。
クープラン、バード、ワーグナーやヴェルディなど、音楽史のほぼ全体の音楽が無いのだ。

まだまだ勉強しなければいけないことはたくさんある。
そして人前でたくさん失敗して学び、成功しなければならない本番でしっかりと成功をおさめる。自分の踏み台は自分で作る。
かなり遠回りなやり方かもしれないが、この機会を自分で作ったおかげでさらうことが出来た曲もたくさんある。
これからも大切にしていきたい。

次回は12月5日(水)夜 予定。
既に3グループ決まっている。次は何やろうかな。
とにかく昨日参加してくれた方みなさまありがとうございました!

bassi : Rigoletto エディション見てみたら疑問点だらけだったから教えて欲しい件

個人的にさらうモチベーションができて、クラリネットのためのリゴレットファンタジーをさらっている。
音域を始め楽器に要求する内容がサクソフォンのそれとは全く違うため苦労しているが、それはそれで勉強になっている。と思いたい。

さて、正直音楽家としてこのような勉強の仕方は考え方によっては文化的に衰退する勉強の仕方なのだが、 どうしても輸入楽譜は買える数に限度があるので、今回自分はペトルッチに存在するカールフィッシャー版の楽譜を利用している。
しかし、クラリネットの専攻生に話を聞いてみるとこの曲の演奏の際に使用する楽譜はリコルディ版のものが一般的であるということがわかった。そこで時間ができた時にエディションの比較をしようと決めていて、やっと時間を作れたのでこのような記事を作り始めている次第。
全ては載せないが、可能な限りソースなども探しながら読んでいこうと思っている。
一応、いま素材として持っているのは、

Carl fischer ,1901(以下Cf)(IMSLPより拝借)
Ricordi ,2001 (以下R)(学内図書館で拝借)
Ricordi ,(?)オペラスコア(IMSLPより拝借)
Dover, 出版年メモ忘れ、オペラスコア(学内図書館で拝借)

以上の4つ。

で、なんでわざわざ俺勉強してるだろ、みたいに記事を書くのかなのだが、もうこれは自分がクラリネットの先生がいないからであって、間違っている部分などあれば誰でもいいから教えて頂きたいのだ。ということでお付き合いくださる優しい方よろしくお願いします。。ハイ。。

全体の印象として、アーティキュレーションの位置がズレている部分が多かった。まあ当然ちゃ当然でそのためのエディション比較なのだが。サクソフォンを勉強する人にはあまり馴染みのない話かもしれないが、他の楽器の人は当然のようにやっている事なので、自分もしっかりしなければと思ってやっている。(それはまあサックス作品が新しい曲ばかりで、比較をしようにも資料が(そもそも原曲の作曲者の)著作権などの関係で少ないことも原因の一つになっている。権利者の権利を守る機能はしっかり果たしているとも思うが、その一方で本当に探したい過去の情報を見つけることが困難なのは、近現代の音楽を勉強している身にとっては少し辛いものもある。これはまたどうにかならんものかと思うことがあるがそれはまた別の記事で)

また、一番大きな違いとして、Cfには有ってRには存在しない楽節が存在する(!)。
両方とも間奏の部分なのだが、3幕のアリアの後の間奏がCfは24小節に対して、Rは16小節、
1幕アリアの後の間奏がCfが15小節、Rが7小節。

アーティキュレーションに関していうのならば、原曲のボーカルとクラリネットで違うのはこれは歌詞やパラフレーズと言ったことの関係もあり当然と割り切れる、し、これはバッシのものを基本的には尊重するべきだろう。
ただ、CfとRであまりにもアーティキュレーションの書き方に違いが多すぎるように感じる。
具体的には、Cfの方には全体的にレガートが短く、スタッカートなどで音を分ける事を指示する記譜が多いのに対し、Rはレガートが長く基本的にアーティキュレーションに関する指示が比較的少ない。

両方の版に共通で間違っているのではないか?と感じた部分が一箇所。
14小節目の和音、演奏者はこぞってピアノの右手のソの音をナチュラルで演奏するが、これは楽譜通りに演奏するとなればソ♭が正しい。これは果たして?

と、スコアの方を見はじめたらマジで違いが多すぎてようわからん感じになったので、クラリネットパートの方だけにとどめておこうと思う。
一番気になるのが、一番最後のアレグロ部分。

koreharedeiinoka.png

リコルディ版は四拍目がご覧の通り1−3拍目と違いレの音になっている。
カールフィッシャー版はこれが1−3拍目と同じファのままになっている。これはどっち?
でも意識してみたらレの方がありそう感あるよなあ。何人かの演奏者を聞いた感想だけれども。。

あと、Cfが勝手に書いているのか、Rが勝手に省いているのか分からない表情記号の存在もいくつか。
3幕のメロディを引用している場所のバリエーションに、CfのみBrillanteの指示。
また、その後のCadenzaからRはCadenza a piacereの文字が消えている。(まあ見りゃわかるものだからそんなに問題にすることでもないのかもしれないが)
1幕アリアのVariation部分、CfはPoco piu (f),RがRall,Appena と、Cfは少しフォルテへ向かうニュアンスの指示を、Rは
少しラレッタンドと全く違う指示。

他にもフィナーレ前の2幕のマントヴァ公爵のアリアにはanimando un pocoや、poco piuまたはpiu vivoなど速度の変化を指示する記号がいくつかみられるが、これは原曲オペラのスコアには見られない。

また、有名なミスだが、3幕のアリアの途中部分では、Cf,R共にミスがある。
第一展開形であるはずのベースラインが基本形になっている。
Bassmis.png
この右側の小節。
同時に、オケスコア(Dover)を見る限り内声のハーモニーも第一展開形に対応するハーモニーで書いてあるが、Cf,R共に対応しない(第3音の重なり)が存在する。場所が違うのか?バッシの方はBdurだが原曲はDesDurだ。

後、関係ないがオケスコアでいう38番(急にまたわかりにくいなこれ)はどちらの声部をとっているとして考えるのが正しいのだろうか?どちらの歌詞というよりも、場面で捉えた方が良いのかな?

とりあえず疑問第一弾はこれくらい。
全体的に4つの楽譜を(流し読み程度だが)読んでみて、なかなか面白いが骨の折れる作業だと感じた。
サクソフォン奏者ならグラズノフ、ヴィラ=ロボスなんかはこのような問題が検討できるようになってきたが、まだまだこれから新しく面白い発見がどんどんされていくことだろう。
バッシに関していうのならば、最初にこの曲の楽譜を見ずに音楽を聴き、その後ヴェルディのオペラを全曲通して聴き、その時に比較的後半の部分の曲ばかり取り上げているのか?というような印象を抱いたのだがそういうわけでもなく、1幕1曲ずつのバランス良い配置で音楽を作り上げていることがわかった。おそらくこれがハイライト的な役割を果たしたのかもしれない。
この曲の成立背景など見ていたり、初演当時の様子(?)など見てみると、ロマン派時代の演奏者のヴィルトゥオージティと、オペラの一般普及との相乗効果をあげているような感じがあったそうで、これは現代でも何かそれと同じようなことをしてクラシックを盛り上げることは出来ぬものかと少し考えたりもした。自分は演奏することが基本的には専門なので、そういうのはどちらかというと作曲家の人にお願いしてポケーっと待つだけなんですけどね。

同期の演奏会へ

新大久保DACへ。
同期の演奏会を聴きに行った。

おさらい会やエチュード会を共にしている仲間達が演奏している姿を間近で見て、刺激になったとともに自分ももっと頑張らねばと感じた。

同時に、自分が学生が終わってから、自分が自分のことをプロと認められ、周りからもプロの演奏家として認められるような行動をし続けるために今から準備をしなければならないとも思った。
もっと頭使わねば。そして誰よりも考え行動しなければ。

学生でいられる時間はもう少ない。
何をして生きるか改めて考えるきっかけにもなった。

音楽家は華やかか?

今日はレッスンに卒業アルバム撮影に忙しい日だった。
終わりには木下牧子氏による公開講座が行われ、自分なりに音楽の語彙を肥やせたのも良い経験だった。
明日は友達のコンサートへ。楽しみだ。


このブログは、いったいこの世界の中ではどのような立ち位置になるのだろう。
自分としては、音楽家という職業の華やかさのイメージに対して、実際に起こる現実の厳しさや辛さ、楽しさや喜びも含めて自分なりにダイレクトに書いているつもりなのだが、まあそんなのは人の受け取り方だからなんでも良いのだが。

我々は忘れてはいけない。
ちょっと書き方が傲慢かもしれないが、忘れたくないので。

自分が経験した苦しみを、人に共有させることはしてはいけない。
自分が耐えられた現実は、必ずしも誰もが耐えられる現実とは限らない。

自分は、正しく努力した人間が報われない世であることは受け入れがたいが、
それと同時に正しく努力した人間が、だれかを守ることで報われる世になってほしいと強く思う。
それは、自分の願いでもある。
自分の努力が、誰かの救いになることで報われるようにと思う。

気づけば夜というアレ



学食メシ。チーズチキンカレー。彩のセンスええなあとか思いながら頂いた。センスめっちゃ磨きてえ。


お昼に授業が終わるので、少しさらって家で出来ることをしようと思ってさらい始めてみたら夜になっていた。困る。
1時間くらいで帰ろうと思ったのに…。

演奏のイメージが固まることについて、の話が授業中に出た。
ある曲を長い期間さらっていると、しらずしらずのうちに吹き方のクセが身体の中に染み込み、恐ろしいのが、それ以外の演奏が受け付けられなくなるというもの。

何も演奏だけに当てはまる話でもないと思った。
ひとつの考え方に固着していれば、最初はちょっとしたコピーのつもりでもやがて自分の価値観の1部となっていき、やがて固まった考え方へと変わっていってしまう。

実はこの問題については、自分が高校生の時から深く、そしてなるべく慎重に考えているつもりの問題だった。
音楽というものを演奏する時、一体その音楽は誰のものになるのだろう?とか、正解の形がない音楽なのに、自分なりに答えを出して演奏をしなければならない。しかし歴史の最新の研究と同じように10年20年経てば良いとされる奏法や解釈など変わっていくのが常。その中で自分自身が中庸な価値観を持ち続けるにはどうしたらいいのか、ということだ。
しかし悲しいかな、割と考えが硬いと自分で思うことも多いし、なかなかそのバランスを保つことの難しさというのも感じる。
それと同時に、そのバランスを崩してこそ生まれる魅力がある、ということも痛感している。

今日の授業では、自分が演奏をしてその感想を同期や先生から頂くというものなのだが、改めてそのことを忘れてはいけないなと思い、ブログに書き残している次第。

本当にコレ、泥沼のような問題だと思っていて、1つの解釈に依らない=主観的な意見を排除しながら意見や意志を作り上げていくというのは本当に難しくて、逆にこの主観的な意見を排除する、というコンセプト自体がもう主観的である、なんて言われたら話が全く出来ないわけだ。
結局柔らかく柔らかくと考えても何かは固めて話をしなければならならず、しかしその固まりが違うと分かればすぐに脱出し再構築する柔軟性やその技術が結局必要で、まあもうこればかりは経験によるものでしか積めないのかなとも思う。ゆーてこれも思い込みみたいになるでしょ?はい泥沼。泥沼って決めてんのは自分でしょ?(みたいにクソリプが続く)

そう考えるとレッスンというのもなかなか面白い考え方が出来る。
先生の教えを乞うような演奏に終始することもあれば、自分と先生の演奏の違いを考察し真似たり(あるいは真似なかったり)、客観的に音楽を判断できる機会というのはやはり貴重なものだと感じる。
今日の授業の内容でいえば、これから先プロになって、サジェスチョンを出してくれる人はいなくなって行く。そうなって行った時に自分自身よがりの演奏をしているだけではきっと人は離れていくよね、そうなっていく中で、人が離れないような演奏をし続けるために自分がどう成長するべきか?を考えなければいけない。
そして段々練習法などを検討する方向へ話が変わっていくのだが、この先は練習ノートに書いておりブログに書く必要が無いので割愛。笑

そう、もし需要があれば良い機会なのでダールのサクソフォン協奏曲の研究(といえるものになるかは分からんが)をこのブログ上でしばらくやろうかなと思う。エディション問題やカット問題、エディターの(不必要な)指示などでオーセンティックな演奏が非常に難しくなっている。その辺を検討した記事を書きたいと思っている。まあ冬頃とかになると思うが。

Jrt

今日は高校生レッスン。
部活に勉強に忙しいと思うが、自分のペースでいいので一歩一歩進んでいって欲しいと思った。
強いて言えば、自分は高校時代勉強というものをだいぶんサボっていた。
別にその時勉強のシステムの無意味さとか、勉強をする意味が分からないなど主張したことはまったく咎める気はないが、しかし脳に入る様々な情報が今の語彙を作り出していることを考えると、まあとりあえずいろいろなことをやっとけとは思った。まあ今更だけど。
けどもう自分はそこそこ不器用なのでそれが難しいとか無理に近い人間だということも分かっていて、まだまだ楽器は出来ないけれど出来ないなりに出来るようになったのは音楽にステータスをほぼ全振りしたからであるとも思う。もしかしたら機会損失してたのかも分からないがそれを考えたらキリがない。まあでも結論、必要になったら今からでも勉強すればいいから、その時その時に一番やりたいことに正直でいられたらいいなと思う。

夜はバルトークの合わせ。
まーなんというか本当に元気なメンツだと毎日思う。笑
とても難しい編曲をしてしまったが、しっかり仕上げられるようにしたい。
というか自分が練習します。ハイ。
ソプラノ難しい!!特別めちゃ難しく感じてしまう。

合わせ後は時間ある人同士で夜ご飯行った。

また明日から頑張ろう!

自分の決定的な欠点に気づけないのはそれが決定的だからなのでしょうか?

中学校指導から、来たる24日の演奏に向けてのリハーサルだった。

24日の演奏では、サックスの小編成アンサンブルではまず取り扱わないであろう、バルトークの管弦楽のための協奏曲からフィナーレを取り上げた。おったまげてください。

メンツも大事な仲間たちと一緒に演奏する。自分がちゃんと吹けるか心配なくらいなのだが楽しみだ。

自惚れるわけではないが、例えばおさらい会とかEFとか、まあ基本的には自分がやりたいからやっているわけなんだけれども、いつも勝手に心配になってしまうことがある。
音楽をするときは、基本的にいつもだれかを巻き込んでそれは成立するわけなのだが、その巻き込みが迷惑になってないかということをたまに考えてしまう。
これはもう、自分がやりたいことをやっているのだから考える意味のない話なのだが、自分の心の弱さというか、変なところに頭が回る、よくない癖だと感じる。

往々にして、自分の欠点というものは見えない。
しかしそれを探してばかりいたら、欠点があることはわかるがそれが何かわからないという事実で押しつぶされてしまう。
だからそれを助けてくれる仲間がいて、あるときは許し合いある時は言い合い、そうして人付き合いは続いていく。

明日もバルトーク。

うーん

深刻な病に倒れた女性が、1週間だけは自由に生かして欲しい、という詩を残した。
その女性は、1日目に料理をし、2日目に趣味の編み物をし、3日めに身辺整理をし、4日めに箱根へドライブへ行き、5日目には孫と子供の誕生日をいっぺんに祝い、六日目に女子会をし、7日目に愛する人と共に過したいと綴った。

最後には、それが叶うのならば私は死の瞬間までじっと待つと。

悲しくなってしまった。
自分がもしも1週間の時間を与えられたら、一体誰と過ごし、どこへ行き、何をするのか。

全くリアリティがない話なのかもしれない。
だから真面目に考えていないのかも。分からないが。

ただまあでも 全然、1週間自由に出来てもあんまり浮かばなかった。
それは今の自分が自由だからなのか、本当にやりたいことが何も無いのか、分からないが。
まあでも、今の生活、悔いがあるように生きるのはそれはそれでまずいし、逆に悔いがないなんて言えてしまったらそれはそれですごい傲慢だよなとも思う。

いや、あんま考える話じゃないかもしれない。
いいや明日も頑張ろう。